冷泉家訪問

縁あって冷泉家住宅を訪問、ご当主である貴美子ご令室より懇切丁寧なるご説明を受けましたのでご報告致します。まず、冷泉家について簡単に説明致しますと、皇室に仕える公家のひとつで、その仕事は和歌と有職故実で、和歌については藤原俊成・定家の血筋を継いでおり、蔵には定家などの直筆の和歌集が収められているのです。有職故実とは藤原定家が記した「明月記」にあるように古の時代からのしきたり(儀式、衣服、作法など)を伝える役割を云います。

門を潜り、大きな玄関に入り、お座敷を幾つか抜けたところの大広間があって、そこで貴美子様のご説明が始まります。前の方はお座布団の席で、膝に支障のある方用に低い椅子が並んでおります。まずは江戸時代の御所とその周囲の地図が配られ、御所御苑の西と東は烏丸通りと寺町通り、北は今出川通、南は丸太町通に囲まれていることの説明があります。そして冷泉家は御所北側の今出川通を挟んだ北側にあることをお示しされます。

応仁の乱から本能寺の変など幾多の戦乱を避けて、公家たちは遠方にある自分たちの領地などに避難生活をしていたのですが、太閤秀吉によって公家の住居は前述の大きな四本の通りに囲まれた土地に集中して住むようになったのです。都を外敵から守る御土居を作ったり、寺を寺町通りに集めたりと秀吉は今の形の京都を作ったのであります。私は、公家の住居を御所の周囲に集めたのは、ミコトを庶民から遠ざけるという隔離策であったかもしれないと気づきました。

なお、冷泉家がこの地に居を構えたのは慶長十七年(1606年)という記録がありますが、秀吉の都市計画の完成がその時期までかかったのではなく、当時の冷泉家の義兄に不始末があり、連帯責任と云うことで、所払いの処分を受けていたので冷泉家は各地を転々としており、ようやく慶長五年(1600年)に公家の街に加わる許しが下りたのであります。

さて、平安時代までは祭政一致でミコトが元旦から春分新嘗祭など祭り事と政治の両方を司取っていたのですが、武士の勃興隆盛によりミコトの仕事は祭り事だけとなっていきます。その祭り事には新年の歌会はじめなど一般庶民にも知られている行事もありますが、多くはすめらみことと公家たちによって行われております。何のためにやっているのか判らない行事もありますが、昔からやっているからとしか言えないのが伝統文化なのであります。

そして皇族の行事を支えるのが公家の仕事なのであります。それらの仕事は一子相伝で、優秀なお弟子さんがいてもその家の仕事を継ぐことはできません。但し、本家からそれらの弟子は特別な優遇を受けることができます。冷泉家の例ですが、ご先祖さまの藤原俊成や定家の直筆本を手に取れるのは冷泉家当主のみですが、高弟になるとそれらを所蔵した蔵の小窓から書籍を眺める許可が頂けるのであります。

師と弟子、権威、一子相伝、弟子は師を超えることが出来ないなど、貴美子様の言によれば家元制度のオオモトは天皇家であるとのことであります。愚妻も少し華道をかじった時期がありまして、家元から華名というか「名前」を頂き、看板も頂きました。私もお茶を嗜もうと思いましたが莫大な費用がかかることを映画「日々是好日」を観て実感して、今では台所でお抹茶を立ち飲みしております。脱線してすみません。

御所と御所の周辺で年々歳々の行事を繰り返していたのですが、明治維新になり明治天皇が東京に移られた際に沢山の行事も廃止されましたが、公家は一応天皇家に従って東京に転宅しました。すると御所の周囲は空き家ばかりになったので明治20年代に整備して御苑(公園)となり、周囲に石垣も出来たのですが、冷泉家はたまたま御所の北の今出川通りの向こう側にあったので、取り壊されずに残ったとのことです。

その後、今出川通りに市電を通すための大正六年(1917年)の拡幅工事で、正門や塀は少し北側に移動して玄関との距離が縮まり、庭も狭くなったのですが、主な建物は江戸時代の形を留めております。また、天明八年(1788年)の大火で焼けており、現存する住宅はその当時の再建住宅ですが、幸いなことにお文庫を蔵した蔵は無事であったので、家元としての面目は保たれているのであります。

また、明治東遷に伴う留守居役として、冷泉家の東隣に山科家、西には藤谷家、徳大寺家の四軒が並んでいたのですが、冷泉家以外の三軒はいずれも同志社大学の敷地に取り込まれてしまいました。まるで兼好法師徒然草の一節をそのままなぞるような世の中の移ろい、儚さを示す事例ではないでしょうか。

さて、前置きが長くなりました。ここから住宅の説明に入ります。表門は瓦葺きの薬医門(門柱の後ろに控柱を設けた四本足の門)で、その屋根のスロープの一番下を司る「留蓋瓦」に亀の像が使われている事が特徴であります。玄武朱雀青龍白虎という四神相応が、アレンジされて亀(北)、鳥(南)、龍(東)、虎(西)となり、御所の北に冷泉家があることから亀をモチーフにしたと云われております。繰り返しになりますが、門は道路拡幅のため10mほど北に移動、そのため白川の砂を敷き詰めた庭も狭くなっております。

庭には、右近の橘と左近の「梅」が植えられており、梅はちょうど満開の時期でありました。なお、御所紫宸殿の左近には「桜」が植えられておりますが、唐国から伝わった当時は「梅」だったものが国風化に合わせて「桜」となっておりますので、冷泉家は大昔の慣例を継いでいるといえます。ここで脱線しますが、御所の正面の門は丹塗りですが、来日した中国人に言わせるとその朱色は中国のものと色が違うとこの耳で聞いた覚えがあります。材料の入手性がそうなのかは知りませんが、海外から取り入れたものを改良する本邦の習性は少なくとも数世紀前には始まっていたのだなあと感じました。

ここから玄関、座敷の説明に入るところですが、大正六年の道路拡幅に合わせて住宅そのものも、「曳き家」(家全体を水平移動すること)をしたことを機会に増築や改築をしており往時の姿を偲ぶことには少し無理がありますが、特徴的な内装について二項目を挙げておきます。

まずは、和歌の会が今でも開かれる大きな座敷の床の間です。床の間に掛け軸、違い棚に書院というのが一般的な造りで、床の間は向かって右側に配されるのですが、ここの座敷は床の間を中心にシンメトリーに作られていて、掛け軸と生け花で季節を感じさせて和歌の会を盛り上げる仕掛けになっております。翻ってふすまには、山水などを書き込まず和歌の創作に邪魔をしないように無季な唐草模様が描かれているのであります。今ではテレビ中継放送が行われる宮中の歌会始は正月の風物詩ですが、冷泉家でもここの大広間で平安時代の衣装を纏って歌会始が毎年開かれています。

台所は、禅寺の庫裏に似ていて、大きな竈が三口あって天井は張らずに梁組みが露出しており、長年の竈の煙に燻された黒光りがなにか荘厳な雰囲気さえ醸し出しております。そして、竈のある土間から板の間に上がるところの束には「赤熊(しゃぐま)」といわれる藁束が括り付けられております。これは祇園祭山鉾巡行の籤取らず一番の「長刀鉾」の長刀の先端にある刃と山車の屋根の間に飾られている「天王の御座」の一つで、巡行の後にこの場所に魔除けとして飾られるようになっているそうであります。

本来の「赤熊」とは赤いライオンのたてがみのようなウイッグのことを指しますが。旗、槍、兜の飾りにも用います。時代劇では、大名行列の槍の先に白いフワフワがついているものが出てきますが、あれは「白熊(はぐま)」と呼ばれているそうで、それを赤く染めると赤熊になります。

最後が御文庫つまり土蔵であります。中には前述の藤原定家などのご真筆が所蔵されていているので、これを失うと家元の権威に拘わることになるのです。そこで屋根まで漆喰で塗り固めて、その上に木製の屋根を載せている。そして火事が近くにあると先ずは木製の屋根を外し、蔵全体にムシロを被せて、そこに蔵の南に穿った井戸の水を浴びせ続けるという防火対策をするのです。こうして天明の大火を初めとして幾多の火災を耐えて800年を過ごしてきたのであります。

当然ながら蔵には正面扉があって、見学時には通風のためか分厚い扉は開いていますが、その扉を潜って内部に立ち入ることができるのは当代の当主のみであります。そしていかなる高弟といえども内部に立ち入ることは許されず、横にある通風窓から内部を拝むのが最高位の弟子のシルシなのである。また、冷泉家にとっては蔵は神殿でもあるので元旦にはお参りするし、子供が近くで遊ぶことも禁じられているとのことです。

なお、写真撮影は許可されていましたが、公開は許可されていませんので写真がないことをお許し下さい。

以下、蛇足ながら;敗戦後に冷泉家は伯爵の地位を失い国からの御下賜金を受けられなくなりました。同時期に農地改革で不在地主であったことから昔からの田畑(領地)を失い、一時期は屏風や書画骨董、茶器茶碗などを売って生活していたそうです。そして相続税を支払えないことが判明すると京都府に申し入れして文化庁も動き、財団法人「冷泉家時雨亭文庫」を設立して相続税問題を回避したとのことです。

さらに以下は2021年7月4日読売新聞からの引用です。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

藤原道長の六男、長家に始まる御子左(みこひだり)家と呼ばれる系統から歌人藤原俊成、定家親子が出た。鎌倉時代、定家の孫の代に二条家、京極家、冷泉家の3家に分かれ、いずれも歌道師範家として重きをなした。二条、京極、冷泉はそれぞれ当時屋敷があった通りの名だ。

冷泉家の家祖、為相(ためすけ)の母、阿仏尼は側室だったが、亡き夫の所領を息子に相続させるための訴訟で鎌倉に赴き、この時、紀行文「十六夜日記」を書いた。為相も長く鎌倉に暮らし、武家に歌を広めた。

嫡流二条家は権力争いに巻き込まれ、和歌が巧みと評判だった京極家は政治に関わりすぎて、いずれも家が断絶した。残った冷泉家藤原俊成の歌論書「古来風躰抄(こらいふうていしょう)」や定家の日記「明月記」など、御子左家以来の貴重な遺産を引き継ぎ、動乱の時代を生き延びた。

戦国時代には地方へ避難し、駿河(現在の静岡県)の今川氏などを頼った。豊臣政権期には正親町天皇の勘気に触れて大坂に退去したが、徳川家康の取りなしで京都に戻り、現在の場所に屋敷を構えた。

秀吉が形成した公家町の屋敷のほとんどは明治時代に取り壊され、跡地は京都御苑となった。その外側に位置する冷泉家は旧地に残ることができた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

四国ほぼ完乗報告

四国ほぼ完乗報告

2024年3月20日

 

2024年3月6日(木)から、3月8日(土)にかけて下記の路線を踏破して、四国のJR、公営、私営 の全路線を完乗した。 

 

【今回の完乗路線一覧】

① 高松琴平電気鉄道 志度線

② 高松琴平電気鉄道 長尾線

③ JR高徳線

④ JR牟岐線

⑤ 阿佐海岸鉄道 阿佐東線

⑥ 土佐くろしお鉄道 阿佐線ごめん・なはり線)、宿毛線中村線

⑦ とさでん交通 ごめん・伊野線、駅前・桟橋線、 

⑧ JR予土線

⑨ JR予讃線 (内子線を含む)

⑩ JR土讃線

⑪ 伊予鉄道 郡中線横河原線高浜線

⑫ 伊予鉄道市内線(路面電車)★ほぼ完乗★

 

【各路線の体験と感想】 

① 高松琴平電気鉄道 志度線(瓦町~琴電志度

高松琴平電鉄は高松から金比羅宮へ向かう琴平線が有名で、私は大学時代に完乗している。始発駅の瓦町駅は琴平電鉄の全三線が通る駅で、そこから東に向かい海に出ると海岸に沿うようにして走り、並行しているJR高徳線志度駅近くの琴電志度駅を終点としている。

 

沖松島駅を発車すると源平の合戦で有名な屋島が大きく左手に見えてくる。日本の殆どの山は裾野から斜面が立ち上がって頂上に至るが、アリゾナのモニュメントバレーの切り立った岩山を彷彿とさせる直角に近い側面を持つ山は絶景である。また、源平の合戦が行われた800年前は屋島は文字通りに「島」であったが、江戸時代に入って塩田や新田開発のための干拓や埋立で陸続きになっている。

 

終点の琴電志度駅に近くなると入り江となった眺めの良い海岸線に沿って電車が走る。木造瓦葺きで扉のない駅舎はバス停に毛が生えた程度なので、100mほどの距離のあるJR志度駅との乗換駅とは思えない。

 

海抜の低い地帯を延々と走るので視界が常に開けていて、多くの河川を渡る鉄橋も楽しめて他路線にはない面白さがあった。何かゆったりした走りだなあと感じたのは琴電が全て標準軌(新幹線と同じ線路幅)であったことに関係があるのだろうか。また、駅間距離の平均が830mと後で知ったのでこれもゆったり感の原因の一つかと思われる。

 

② 高松琴平電気鉄道 長尾線

前述の瓦町駅から南東に向かって一直線に走る路線である。電化されているが単線の昔から何も変わらない線路かと思っていると水田駅付近から高架線になり、高松東道路という地上を走る有料道路を跨いでいる。流石に有料道路に踏み切りがあるのは許せないのであろう。そして高架線のまま、別の高架の高速道路を潜って地上に降りていく。自動車の普及によって鉄道が変化を強いられているのだと思う。

 

クロネコヤマトの宅急便の開業が1976年。国鉄からJRになったのは1987年であり、つまり鉄道から自動車の時代に移ったのは1970年代から80年代である。そこから地方路線の苦難が始まるのであるが、高松琴平電鉄も2001年に民事再生法の適用を受けている。地元の評判も悪く、鉄道は要るが琴電は要らないという言葉に由来してマスコットは「要るか」にかけて「イルカ」なのだそうだ。

 

また、蛇足だが走る車輌の九割が京浜急行からの譲渡車輌なので、横浜市民として乗車していると何か妙な親近感があった。 

 

 

③ JR高徳線

非電化単線の路線である。高松駅を出て暫くすると高架線となる。高松市の都市部は道路との立体交差は不可避であったのであろう。そして琴電にはなかったトンネルを潜り、高松から離れていくとトンネルが増えてくる。そしてまた徳島駅に近づいてくると市街地は高架線となる。ただし、徳島は地上駅であった。

 

④ JR牟岐線

徳島駅から四国の東海岸を南下するのが牟岐線阿波海南駅が終点で、そこで線路は途切れている。

 

⑤ 阿佐海岸鉄道 阿佐東線

実は牟岐線の線路は更に続いているのであるが、一旦途切れていて、また続いている。

JRはこの先に線路を敷いたのだが赤字必須なので延伸を放棄し、その線路の上を鉄道車輪(とゴムタイヤ)の両方を持つDual Mode Vehicleで走ることになる。写真右下の18人乗りマイクロバスの下から鉄道車輪が出てきて、写真左下の向こう側の線路に乗り入れるのである。  

この鉄路は次の海部駅宍喰駅甲浦駅まで続いているのでそこまでは鉄輪で走り、そこで鉄輪を車体下部に格納して、そこからゴムタイヤで走るバスのモードで海の駅東陽町のバス停まで走るのである。

 

バスから鉄輪を降ろすモードチェンジの時は、徳島県なので阿波踊りのお囃子が流れ、車体が浮き上がる感じがする。そしてチェンジ動作が完了すると女性の声で「フィニッシュ」とアナウンスされるのが面白い。また、線路上を走行している時はホイールベースが短いためなのか、鉄道車両にも自動車にもないストロークが短い独特の揺れを感じる。

 

乗り鉄としては甲浦駅で線路が途切れているので、そこまでを鉄道に乗ったことにする。そしてその後は室戸岬を巡って、土佐くろしお鉄道奈半利駅までバス移動するのであるが、国鉄時代には、四国の東側から高知まで鉄道の計画があったようである。その鉄道は四国を一周する鉄道の一部になるのでロマンは感じるが、人口密度も少なく事業としては成り立たないことは目に見えていたのである。

 

少し話が逸れるが、ひとつだけ書き残しておきたい。

私の手元にあるJTBパブリッシング社刊「JR私鉄全線乗りつぶし地図帳」は2020年8月の初版であり、この本を基本に計画を立てている。しかしJRから阿佐海岸鉄道への鉄路の移管は2020年11月、DMVの運行開始は2021年12月である。。つまり、上述の変更は反映されていないので、計画の前提と現実とは違うことを現地に行ってから知り、少し慌ててしまうのである。

この本の改訂版は2022年に発行されているが、そんなに変化はないだろうと買わずにいた。2020年度版で立てた計画では甲浦駅で朝食を摂る計画であったが、すでに甲浦駅は信号場になり、そこで降りることはできない。幸いなことにDMVがそこから先まで運んでくれたので結果としては良い方向に落ち着いたが、最新の情報は努めて収集したいと反省したのである。

 

⑥ 土佐くろしお鉄道 

阿佐線ごめん・なはり線

前述の四国一周鉄道の一部として施設されたのが、この路線で「阿佐線」の「阿」は「阿波徳島」であり、「佐」は「土佐高知」で、昔のロマンを名前に残しているのである。2002年開業のため、高架線で眺めは良いが直線が多く沿線の景色に変化が乏しく、余り楽しくはないが、3月初旬であるのに咲いている菜の花の群生に目を癒やされた。

後免駅からJR土讃線に乗り入れており、列車の終着はJR高知駅である。元はといえばJRの路線であったし、徳島駅で貰った「JR四国路線図」には、JR路線でもないのに土佐くろしお鉄道の三路線が記載されていたのには妙に納得したのである。

 

宿毛線中村線

高知からJRで西に向かうと、窪川駅から宇和島や愛媛方面に行くJR線と、さらに西進する土佐くろしお鉄道に分かれる。その線は途中までは中村線で、中村駅から宿毛線となる。つまり一本の線路であるが、二つの路線に分けているのである。

実は、高知からのJRは中村駅まで乗り入れており、JRと一体の運営をしているので路線を分けているのではないかと思うのである。

 

宿毛線の終点、宿毛駅は鉄道のあるあるが二つある。まずは、1997年竣工ということから、近代的な高架線で直線が多い線路ということで、トンネルも多い地域もあり、乗り鉄としては車窓からの景色の楽しみが少ない。これは阿佐線にも共通するところである。東海道新幹線山陽新幹線ではどちらが眺めが良いかは明白である。

そして、宿毛駅前は岐阜羽島駅前のような、つまりは商店街も何もない町外れの場所に立てられていることである。つまりは市街地に線路を敷くのは大変なので街から外れた場所に駅を作ったのである。例えば、京都の中心は四条にあって駅は七条にあるし、札幌、弘前、新潟、名古屋、広島も熊本も繁華街は駅から離れている。

 

以下は泣き言である。

宿毛線中村線を戻って、窪川駅から宇和島方面に向かう予土線に乗るのだが、一日に4本の普通列車しかない。つまりは窪川駅で14時52分から17時38分まで三時間近くの時間、列車を待つことになる。予め調べていた四万十川の鰻を出す店へ駅から少し歩いた。角を曲がると5階建てのビルに動くイルミネーションが光っている。店の前にスタンド看板も出ている。昼休みのない通し営業であることもネットで調べてある。そして、店に近づくと「営業中」と書いてあるスタンド看板に「今日は終了いたしました」と貼り紙を発見した。午後二時過ぎまで空腹を我慢していた腹はぐぅぐぅ鳴いているのである。

次は、店に暖簾がかかっている「居酒屋・きしめん」の店に入ってみた。すると薄暗いカウンターの向こう側から高齢のご婦人が「やってないんです」とくぐもった声で出て行けと言うのである。さらに、二本の幟(のぼり)が風にはたはたと揺れている手打ちのうどん屋である。店の前まで近寄ってみると「仕込み中」の木製の板が立て掛けてある。最後に「喫茶・スナック」と大きく壁にある店に行ってみた。ドアに営業中の看板が掛かっている。ようやくランチを食べられると近寄ってみると店内から老人男性の大声で怒鳴るようなカラオケの歌が聞こえてくる。

私は昼食を諦めて駅の待合室でじっとしていたのである。

 

⑦ とさでん交通 

駅前・桟橋線

路面電車である。駅前・桟橋線は駅前から南下する線で、はりまや橋で直交して東西に走るのがごめん・伊野線である。ほぼ全線が道路と併用される軌道を走る。高知駅前に路面電車が近づくと警報音が鳴るのであるが、それがファミリーマートの入店メロディと同じなので微苦笑する。

 

ごめん・伊野線

はりまや橋の西側を走る線は、山越えがあったり狭隘な道を単線運行するなど変化に富んでいて面白いが、東の線は高知の繁華街を抜けると住宅街をただただ走るので面白みに欠ける。ただ、終点の後免町駅は駅舎半分がローソンになっていて、待合室からドアを開けるとローソンに入ることが出来る。また、待合室側にトイレはないので、ローソンのトイレを借りることになる。

 

さて、南北と東西に走るとさでん交通の2路線が同じ平面上で直交する「ゴールデン・クロス」ははりまや橋駅近くの交差点にある。本邦にはこの「ゴールデン・クロス」は三カ所しかないので、鉄道ファンにとっては巡礼の地の一つである。交通信号機があるので、衝突の危険性はないが、クロス部分の線路の構造は鉄道ファンならずとも興味深いものがあると思う。 

高知のゴールデンクロス

⑧ JR予土線

窪川駅については泣き言として書いた。そしてようやく17時38分発の宇和島行の普通列車に乗り込んだが、頻尿の老人には不吉なアナウンスがあった。当列車にはトイレがついておりませんというのである。どこのローカル線でも、たとえ一両だけの運行であっても車両にはトイレがついていることが常であった。それが宇和島着20時15分、つまり3時間弱も乗の列車にトイレなしというのである。

この線は山の中を走る単線で、車窓からの眺めも典型的な谷と川と鉄道と道路の組合せが続くのであるが、単線ということで対向列車行き違いのために停車することがある。それでもダイヤ通りに運行しているなら途中駅のトイレを使う時間はない。そして、どうやらトイレ休憩のために途中駅で比較的長い時間をとって停車する仕組みになっているらしい。

 

JRの切符は長距離を買うと安くなることは誰でも知っている。そこで高知県後免駅から四国を時計回りに乗って、その後に本四連絡線を渡り、岡山駅から新幹線経由で自宅近くの新横浜までの長距離の切符を買った。有効期間が長いので途中下車は問題ないと思って、宇和島駅で改札を出ようとしたら引き留められた。実は購入した四国ループの外に宇和島駅があるのである。言い換えればループの上にある北宇和島駅から宇和島駅の路線は盲腸線になっているので、私はこの区間の往復の切符を買わねばならなかったのである。

 

説明がくどいが、JR予土線の終点は北宇和島駅。そしてJR予讃線の始発駅は宇和島駅で北宇和島駅を通って松山方面に伸びているのである。

宇和島駅と北宇和島

 

⑨ JR予讃線 (内子線を含む)

この路線は、古い海側を走る線路と1985年に開通した内陸線(内子線)に分かれる。私は1970年代に宇和島から高松まで乗車した記憶があるので、当時は海側を走る旧路線しかなかったので海線に乗ったということになる。内子線のほうが距離が短いので多くの列車はそちらを通り、私の乗った列車も内子線を走った。実は海側の路線には海岸の景色が美しい下灘駅があるのだが、1975年にそこを通った記憶はまったくないのは残念である。

 

松山まで乗らず、八幡浜駅で下車して道を挟んだ向こう側に木造駅舎を持つ伊予鉄道郡中線郡中港駅から松山市駅まで乗車する。前述したように八幡浜から松山までは半世紀前に乗車経験があるからである。

 

ここで、ワンポイント。

この駅で一日乗車券を購入しようとしたら、昨年に廃止されたというので、やむなく自販機で乗車券を購入した。ネットの情報はしばしば更新されないことが多いので複数のサイトで確認することが必要であるが、逆に現場で小さな事件が起こることが旅の醍醐味かもしれないと思うのである。

 

半世紀前に予讃線宇和島から瀬戸内海を眺めながら高松駅まで乗車している。乗ったという記憶だけで何も覚えていないのだ。その後に出張で新居浜と高松の間を何度か往復して、車窓の眺めの記憶は上書きされている。なにはともあれ、松山市内は私鉄を乗り尽くして松山駅から乗車して、多度津駅で下車して高知へ向かう土讃線に乗り換えた。

 

⑩ JR土讃線

半世紀前に土讃線へは、徳島からの徳島線経由で途中まで乗車しているので、今回は多度津駅阿波池田駅を往復する。松山から多度津まで特急しおかぜ22号、多度津から阿波池田まで特急南風17号、復路は南風24号でそのまま岡山まで直行した。各駅の普通列車でのんびり行くのも良いが、予讃線多度津駅発松山方面への特急比率は55%、土讃線も40%であるので、松山駅からは全て特急に乗って岡山まで行くことになった。

 

土讃線はほぼ山の中で、阿波池田駅も山の中である。17時34分に到着して18時24分に戻るのだが、駅前に大きめのアーケードが口を開けて商店街があるが、喫茶店はない。食堂は開いていない。結局、アーケードの端から端まで往復して駅の待合室に戻る。

 

⑪ 伊予鉄道 

郡中線

前述したが、JR伊予市駅から道を隔てた伊予鉄道郡中駅から乗車して、松山市駅を目指す。松山市駅伊予鉄道三線の終発駅になり、郡中線郡中駅は終点ということになる。なにはともあれ、削り節で有名なヤマキの本社があり看板も見える。駅名に港が入っているということは海が近いと思われるが、急ぎ足の乗り鉄には観光している余裕はない。

横河原線

松山の中心となる松山市駅で乗り換えて、横河原線に乗る。面白いことにJR松山駅は町の外れの感じが強い。松山市駅は駅ビルの地上階部分にあり、上には高島屋が入る。さて、車窓の眺めは住宅街が続き、途中に田園が広がる地帯もあるが直ぐに住宅街に入る乗り鉄としては面白みのない路線である。

 

高浜線

凡庸な横河原線と違って、高浜線は見どころが沢山ある。

先ずは線路と線路が同じ平面上で直交するダイヤモンドクロスである。高浜線の道路踏切を走るのが路面電車の大手町線である。遮断機が下りるので衝突の心配はない。

https://www.youtube.com/watch?v=cqMpZI-l7Qo

このYouTubeをご覧頂き、電車、市電、バスの塗装がすべて「みかん色」であることを覚えていてほしい。

 

そして、沿線には日本唯一の1968年発売開始の明治カールの工場がある。一時期は日本に5工場あったのが、高浜線三津駅近くの松山工場のみに生産が縮小され、さらに今では関東地方では入手困難になっている。。車窓からは工場の壁に大きく「明治チョコレート」と一緒に「明治カール」と赤く丸まった文字を眺めることができて、昭和の少年の胸には迫るものがある。なお、私は特別なルートを持っていて毎月最低2袋は食べている。

 

次が梅津寺駅である。駅の向こう側はすぐ海なので景色が良いことであることからか、「東京ラブストーリー」というテレビドラマのロケがこの駅とその付近が撮影場所に選ばれたようであるが、カンチとリカの物語を思い出せない方はスルーして下さい。

https://www.youtube.com/shorts/qnNWTvfi9Kg 

 

高浜駅からフェリー港を眺める

高浜港からの航路

終点の高浜駅の立地と眺めが興味深い。なんと駅を出るとフェリー乗り場に一直線で繋がっている。そして、そのフェリーは数カ所の島や四国の港に繋がっている。

写真は駅舎からの屋根付き通路で、赤いゲートの向こうに白いフェリーが見え、向こう側の山は四国ではなく興居島である。

 

⑫ 伊予鉄道市内線(路面電車

松山の路面電車は、松山城を一周する環状線と、少し西側に偏るがその環状線を縦に短絡する線、さらに環状線の東北の角から東へ道後温泉に向かう路線がある。城の周囲を巡るということから規模の想像ができるであろう。

 

ここにも全線乗車できる一日券がある。しかし紙ではなく面倒なことにアプリを使う。愛媛県なので「みきゃん」という名前のアプリをダウンロードして、自分の銀行口座を登録して最低1000円を入金しなくてはならないのだが、一日乗車券は800円である。現地で買い物もできるが、結局は差し引き200円を残して殆どの観光客は松山を去ることになる。私もその一人である。

 

前述したが、全ての路面電車はみかん色に塗装されているので、人によっては刺激が強いと思ってしまうのではないか。なお、ぼっちゃん列車だけは蒸気機関車に似せたディーゼル機関車が走るので、さすがにオレンジ色には塗っていない。

 

泣き言;

松山へは土曜日に乗り鉄した。その日のうちに岡山から新幹線で帰宅する計画であった。松山市駅路面電車の時刻表を確認して口が開いたままになった。なんと6番の本町線に「全便、土曜・日曜・祝日振替休日運休」と記載されているではないか。土曜日に運休だからといって2泊して月曜日に乗車する策はとれない。つまり今回の四国乗り鉄で全てのJRと私鉄を完乗する計画であったが、僅か始発駅から終着駅まで13分しかかからない短距離の路線を残して四国を離れることになった。

 

さらに調べるとこの路線の終電は松山市駅到着が13時14分で、一日に上下線とも7本しか走っていないのである。つまりは仮に日帰りの飛行機でこの路線に乗るには早めの便に乗らないと間に合わないのである。そして、既に松山への飛行機の予約は取った。次の報告を待たれたい。

カラーコード

昔話を書く。

エアコン用のリモコンなどの小型電気機器の裏側に小さい文字で色々と印刷されているが、その中身を読んだことがある人は少なかろう。ここで取り上げるのはその内容ではなくて、文字の大きさである。1970年代には高速でしかも安価にあんなに細かい文字を印刷する技術はなかったのである。なお、腕時計の文字盤の数字など高額製品に印刷する技術はあった。

当時の電子部品で一番安価なものは、250mW(1/4W)の抵抗器であった。購入する数量にもよるが秋葉原で一本ずつ購入しても5円はしなかったのではないだろうか。一本ずつ購入されてはメーカーも生産コストより販売や管理経費がかかって困るので、50本とか100本単位で流通していたような気がする。

それらの電子部品を使って電子機器を製造するメーカー側でも、そんな安価な部品に在庫管理の経費を掛けるのは無駄なので「在庫管理しない」方法で在庫管理していた。

なにしろ、精度が±5%という一番安価な抵抗器を考えても、1.0kΩ(キロオーム)、1.1kΩ、1.2kΩ、1.3kΩ、1.5kΩ、1.6、、、と10kΩまで24種類の抵抗器があって、さらに10kΩ、11kΩ、12kΩ、、、と24種類、10kΩから100kΩで24種類、100kΩからと際限がないが、普段使うもので大体100種類の抵抗器がある。更に精度が±1%となるとその4倍の本数になる。

で、それぞれの抵抗器にその抵抗値や精度を印刷するのは大変なので、写真のようにそれぞれの色が数字を表すカーラーコードを印刷している。

炭素被膜抵抗器 1/4W

虹の七色は、「せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し」で、漢字で表すと「赤・橙・黄・緑・青・藍・紫」ですが、これの頭に「茶」後ろに「白・黒」を加え、カラーコードではこの「茶・赤・橙・黄・緑・青・藍・紫・白・黒」を「1・2・3から0」まで当てはめて示しています。

例えば、写真の抵抗器は左下から右上に読むと「茶・黒・燈」なので、「1・0・3」と読み取れます。これは「1・0」がずばり「10」を表して、「3」は10の3乗」つまり1,000を示します。つまりは、10,000Ω、言い換えると10kΩ(キロオーム)ということになります。

そして、よく見ると「燈」の横に薄く「金」の帯があり、これは±5%の精度を示しています。

電機製品の裏蓋を開けると、回路が印刷されたプリント基板という部品があります。ベークライトやエポキシガラスなどの樹脂に薄い銅箔を貼り付け、そこに回路を印刷し、部品取付用の穴を開けてあって、そこに写真の抵抗器などの両側の足を曲げて半田付けすると回路の出来上がりです。

1960年代は、部品を手で摘まみ、足を折り曲げ、基板の穴に挿入、足を折り曲げて落ちないようにしてから、板をひっくり返し、半田付けして、余った足を切り取るという全作業を人間の手で行っていたのでした。

1954年には米国ユニバーサル・インスツルメント社が、この両側に足がある形(アキシャル・リード型)の電子部品の自動挿入機を開発していたのですが、1968年に松下電器産業(現在のパナソニック社)が安価な自動挿入機を販売開始したので、爆発的に広まりました。

その後に、足を曲げて、挿入して、折って、切ってという行程が無駄だということで、抵抗器を羊羹のように立方形に作り、プリント板に糊を貼って、そこに載せていく方法が1990年代の後半に採用されたので、製造時間の短縮と部品の小型化、ひいいては製品の小型化が計られて、今ではチップ型の抵抗器には何の印も印刷されていません。

そのチップ型抵抗器の大きさは「1608」から「1005」になり、現在は「0603」つまり、0.6㎜X0.3㎜の大きさになり、「0201」も開発されているので、抵抗値を印字しても読めないくらい小さくなってしまったのです。

なお、そんな風に飛ばされるような小さな部品は一個売りはされずに、5,000個単位で販売されているので、抵抗器の抵抗値を間違えることはありません。

こうして振り返ってみると、私が現役を始めた半世紀前と現在とでは丸で世の中が変わってしまい、カラーコードを記憶しても少なくとも電気電子の世界では役立たずということが判ります。

山崎と妙喜庵

今やネットの時代が進み、2022年11月に AIを使って割合長い文章を書く基本ソフトウェアが開発され、その基本ソフトを使って十指に余るほどのネットサービスが始まっている。例えば「天王山の戦いとは」と問いかけると「山崎の合戦とも呼ばれ、1582年に豊臣秀吉明智光秀との間での衝突。国を分けた決戦があり、淀川と天王山に囲まれた土地で戦われ、秀吉の勝利で終わった。」という回答が返ってくる。なお、日本語表現が少しおかしいのは私が和訳したからである。

 

既に米国では中学生や高校生がこれを使うことが問題になっているというし、これも米国のバズフィードという通信社が一部の記事だろうが、記者の代わりにChatGPTというAIサービスを使うと公表して株価が2倍に跳ね上がった。

 

さて、昨今「京都はどこまでが京都なのか」問題を考えている。秀吉が作らせた御土居の内側だという説や、中京区に限るなど諸説があって、謎は深まるばかりである。私は、解けない謎をさらりと解いてしまう七色仮面ではないので、謎をひきづったまま、阪急京都線山崎駅に降り立ったのである。

 

用意周到な私は、一ヶ月前までに往復葉書のみで見学を受け付けるという国宝「妙喜庵待庵」を見学する計画を立てて、プラチナチケットをゲットした後、お仲間を連れて山崎の駅頭に佇んだのである。そして、なんとその国宝が駅前広場に面していることに些か驚いてしまった。だいたい駅前にはサラ金かパチンコ屋、コンビニが定番であるが、駅前に国宝があるのは珍しいことである。

 

「妙喜庵待庵」は千利休が建てた茶室のうちで確実な証拠のある一番古いもので、にじり口が大きいとか広さが二畳しかない、炉が部屋の角にあるなどゼロ号機、初期モデルの粗さを感じるのでありますが、何故こんな辺鄙な場所にあるのかはここで、説明を受けて初めて知ったのである。明智光秀との戦いの後、秀吉はしばらく天王山に居を構えていたので、千利休を呼び寄せて茶室を作らせた。それがそのまま残って今に至るのである。

 

そして、何故に秀吉がここに居を構えたかは、現地に来てみて天王山に登ってみて実感したのである。山の中腹から足下を望むと、桂川宇治川、木津川が並んで流れており、その下流は淀川となり大阪に繋がります。そして「山崎津」と呼ばれる河川往来の港まである交通の要衝であったのである。つまりは、ここを抑えておけば、西国から来る敵軍に対抗できるのであります。

 

そして、賑わった山崎の街は蛤御門の変禁門の変)で焼かれてしまいます。応仁の乱にしろ、蛤御門の変にしろ、かなり広範囲に焼けたのだなあという感想を以前から持っておりました。京都女子大の上の寺まで焼けたという説明書きを読んだ時に、そんなに家や寺は密集していたのか、火の粉はそんなに飛ぶのかと訝しんでいたのである。

 

その疑問は現地で氷解した。禁門の変で敗走した長州藩がここ山崎に陣を構えたので、追っ手の会津藩新撰組が放火したとのこと。もっとも最後に残った長州藩士17名は天王山中腹の山小屋に籠もり、自ら火を放ち小屋に貯えた火薬で爆死したり、重傷を負ったのである。つまり、蛤御門の変終結したのはこの山崎の地であったのである。

 

さて、中腹までとはいえ天王山を登り、一時は栄えた山崎の寺社を巡り、ようやくもう一つの予約した場所の見学時刻が近づいてきた。意外と歴史は浅く99年しか経ていないが、日本放送協会の朝ドラにも取り上げられた場所でもあり、見学もネットで申し込みできるがあっという間に一ヶ月分が埋まってしまうのである。今となっては二桁万円の値段が付き、入手困難のウイスキーの名称ともなっている「山崎」の醸造所である。

 

1923年に壽屋サントリーの旧社名)が山崎に工場を建て、英国で修行した「マッサン」竹鶴政孝により本格的な国産ウイスキーの生産が始まったのである。その後に竹鶴しは壽屋と袂を分かち北海道でニッカウイスキーの前身である日本果汁を立ち上げるのであるが、サントリーの展示や説明には竹鶴氏のことは一切触れていない。

 

実は、壽屋で竹鶴氏が製造した本格ウイスキーは当時の日本人の味覚には合わず、商売としては失敗作であったのである。竹鶴氏が去った後にウイスキー事業を成功に導いたのはサントリーであるという自負があるのである。

 

工場見学の最後はお楽しみの試飲である。これについては、下記のURLのサイトを参照されたい。

https://retty.me/area/PRE27/ARE85/SUB8502/100000814368/54488429/