琵琶湖疎水クルーズ

京都好きの読者諸兄におかれましては、琵琶湖疏水と聞いてどんな風景を思い出すでしょうか。平安神宮に至る神宮道の左右に広がる水路、哲学の道の水路、南禅寺水路閣、桜のインクライン、蹴上にある日本最古の水力発電所などでしょう。そして、それらの水は琵琶湖から人工の水路「疏水」を通じて流れてきたのであります。

この春に、琵琶湖疏水クルーズを楽しんで参りましたので、そのご報告と疏水のあれこれを語っていきたいと思います。禁門の変蛤御門の変)で丸焼けになった上、明治の東京遷都により京都は寂れてしまい、その復旧を意図して琵琶湖から京都まで水路を引くという計画が立てられました。鉄道のない時代、しかもその後に東海道線が全通しても当時は一日一便という状態ですから、鯖街道の逸話で有名なように馬か人力が主な輸送手段だったので、琵琶湖と京都を船で繋ぎ、加えて流水の勢いで水車を回して灌漑するというのが目的でした。

まず、琵琶湖と京都の高低差は約40mあり、その落差をそのまま水路に当てはめると急流となって船を運行することはできません。そこで、水路の落差は4mとして、京都の蹴上のところで運搬船ごと台車に載せて、残りの36mを上下させるというのがインクラインなのであります。インクラインとは斜面とか勾配という意味ですから、なるほどですね。

話は脱線しますが、インクラインを降りた場所、南禅寺の西側に広がる別荘街には山縣有朋をはじめとして今でも著名人の邸宅が広がっておりますが、初期の計画では南禅寺から取り上げた門前の広い土地は工業団地にするという計画があったのです。今様の言葉でいうとデリバリー手段である疏水と需要家である工業団地は一体化して計画されていたのです。

さて、この疏水を設計したのは若干二十一歳の男で、まずは京都疏水を作るとどうなるかという論文を作り、賛同者を募り明治政府の力を借りて1885年に着工して約8kmの疏水を5年で完成させています。そして外人のお雇い技術者を一切使わず、ブルドーザなどの重機もない時代に手掘りでトンネルを穿ち、工期短縮のためにトンネルは両側からだけでなくトンネルが走る山の上から立坑を掘って、そこから横に掘るという工夫もしております。京阪電車で三条と大津の間を乗ったことがある方なら、山坂の急峻なことをご存知でしょうから、そこに立坑を掘る困難さは想像がつくかもしれません。この立坑は掘るのに196日かかったというから驚きます。

前置きが長くなりましたが、疏水クルーズは春と秋の景色が好い期間だけインえーネットで予約を受け付けております。そして水路幅が5m弱なので、船は小さくて乗客は10名、船頭さんとガイドが乗って定員12名。クルーズの代金が高いのは船の定員が少ないことも原因ではないでしょうか。客席は水路の左右を眺められるように進行方向に対して横向きになっております。また、羽場が狭いので安定性が悪く、乗船時も一人づつ乗り込むように促されます。

私が予約できたのは季節の終わりの最後の一枠だったのですが、これが幸いして眺めの良い最後尾の席を当てがわれました。そして。京都側からの上りが35分、琵琶湖側からの下りの便が50分かかります。なぜ、上りの方が短い時間なのかは現地ガイドさんが説明してくれるので、是非ともクルーズを予約されることをお勧めいたします。

さて、蹴上の駅から少し国道に沿って坂を上り、インクラインの上側の終点まで来ると、そこに船着場があります。季節は春、インクラインには琵琶湖の水は流れていませんので、船着場の横にあるトンネルへ花筏ハナイカダ)となって吸い込まれて行くのが季節を感じさせます。乗船するとヤマハの室外機がうなり、出発。すぐにトンネルに入ります。もちろん昭和の補強はありますが、山科に作った工場で焼いた煉瓦を積んで水路の壁やトンネルの内側がそのまま残っております。

そして、トンネルの出口と入口には扁額(へんがく)があって、山縣有朋西郷従道をはじめとして当時の重鎮による揮毫がレリーフとなっております。季節の描写あり、漢詩あり、成せばなるというような意味の言葉もあって明治20年代の人々の気宇壮大な気持ちになって参ります。

トンネルを抜けるとそこは桜の園、散りはじめの老木や青紅葉に目を奪われます。途中には洛東高校があり、そこの桜も見事ですが、卒業生には「柔道一直線」でお馴染みの近藤正臣さん、オセロの黒い方で色々とあった中島知子さん、渋い俳優の小林薫さんがいるとのガイドさんの説明に時代の流れを感じたのであります。

また、山科の桜の名所である毘沙門堂に向かう坂道の途中にある橋をくぐったり、日本最古のコンクリート製の橋の下を通ったり、興味深い見所もあります。中でも琵琶湖疏水を遮断する水門が途中にあることには驚きました。あの東北大震災の教訓を得て作られたそうであります。滋賀県民が京都府民に対して、「なんなら琵琶湖の水、止めてまうで」という有名な脅迫の文句がありますが、水門は京都府の持ち物でありますので、京都の方は安心していただきたいと思うのであります。また、琵琶湖疏水の両側は滋賀県に入っても京都府飛地というか持ち物なのだそうであります。

さて、終点は三井寺の麓の琵琶湖近くであります。水路は続いているのですが、ここに大きな仕掛けがございます。琵琶湖の水位は一定ではありませんので、そのままにしておくと水位が上がると急流になり、下がると船の底が疏水の底についてしまいかねません。その大きな仕掛けとは閘門です。水位の違う疏水と琵琶湖の間に船を通す仕掛けで、船のエレベータと言い換えても良いかもしれません。詳しくはググって下さると幸いです。水路を塞ぐ巨大な遮蔽板が2枚あって、それを最近まで人力で上下させていたというから驚きです。(歯車を使って人の弱い力でも動く設計です)

https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/best-place-in-shiga/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC62%E5%9B%9E/

今回はこの閘門の前で船を降りるクルーズだったのですが、今年の秋は琵琶湖側からこの閘門を抜けて疏水を下ってみようと思うのであります。高いけどコスパは抜群です。秋の予約は8月中旬から始まるのでお忘れなく。

松山往来記

愛媛県松山といえば、夏目漱石の小説「ぼっちゃん」、道後温泉松山城などが頭に浮かぶであろうが、乗り鉄を趣味としている私にとっては興味深い土地なのである。何故かというと伊予鉄道という私鉄の電車が3路線あって、同じ経営の路面電車が6系統も動いているので乗る楽しみがあるのである。

定年退職後、人間何か目標を持たないと堕落してしまうと考えて、日本全国のJRと私鉄の全線を完乗することを企てて、乗り始めた。それまで、鉄道の趣味はなかったが、旅好きであり、全国を回る仕事もあったので鉄道には馴染みがあった。それに全国への出張のおかげで既にかなりの路線には乗っているのである。

2024年4月の段階で、北海道、本州の線路は全部乗ってしまった。四国も半世紀前に周遊券で廻った。九州も福岡県近郊と肥薩線くま川鉄道を残すだけになった。学生時代の四国には無かった路線もあり、3日間で乗り損ねた路線を乗ろうと計画したのである。

四国の入口である本四連絡橋を渡って高松に入り、名物の讃岐うどんを食べ、地元の琴平電鉄に乗り、徳島に移動して宿泊。翌日は海側の路線に乗って高知に入り、路面電車と地元の私鉄に乗って鰹の藁焼きを食べて高知泊。翌日は西に移動して四国の西端の宿毛まで出て、また少し戻って宇和島泊。

宇和島駅の始発に乗って松山市駅に降り立ったのは、土曜日の早朝で路面電車の時刻表を眺めていたら「土日祝祭日運休」の路線を発見した。本町線というたった一系統であるが平日でも終電が13時ごろという路線であった。当日は土曜日であるからあと二泊して月曜日に乗るという手もあるが、それはもったいないので松山へ再訪することを誓ってJR松山駅から特急しおかぜに乗り込んだ。

さて、インターネットのおかげで、事前に綿密な乗り鉄計画を立てることができるが、よほどの手間暇を掛けないとアテが外れることがある。今回も伊予鉄道の電車の一日券を買おうとしたら2023年末に廃止されたと言われた。そして今度は路面電車の一日券¥800を買おうとしたら「みきゃん」アプリを使えとのこと。つまり伊予鉄道のPayアプリである。住所氏名などを登録して、最後は引落しの銀行口座まで登録する羽目になった。そして最低入金金額は¥1000なのである。¥800の一日乗車券を購入すると¥200が残ってしまうのである。

説明を忘れたが、「みきゃん」とは愛媛名物が「みかん」であることから、アプリにもそれに因んだ名前がついているのである。そして伊予電鉄の電車、路面電車の殆どがみかん色に塗装されているのである。

みかん色の路面電車

何はともあれ、まだ四国には未乗の区間があったので、当日は瀬戸内海に面した線路に乗り、多度津駅から阿波池田駅まで乗り、松山の路面電車本町線を残して帰宅したのであります。

さて、乗り鉄の楽しみの半分以上は計画の立案にあって、今回残してしまった松山をどう攻略するかを考えたのである。一番妥当な案は、松山まで飛行機で移動して路面電車に乗ったら、松山近郊の港からフェリーで小倉へ渡って九州の乗り鉄旅に繋ぐというものであった。

そこで、松山行きの飛行機を検索していたらLCCのJetstar社が片道¥4990という金額を提示していたので迷わず’ポチッとした。LCCとはLow Cost Carrierつまり安い航空会社ということで、機内の飲み物は有料、機内預け荷物も有料、さらに日程変更できる権利は¥1800。乗ってみて判ったのは前の座席との距離が狭く、背もたれもあまり傾けることができないということである。

そして、迂闊だったのはその飛行機は羽田発ではなく、千葉県成田発の便であったのだ。成田空港8時30発に乗るには、自宅近くの駅から5時27分発の電車に乗り、途中から「成田エキスプレス」なるJRの特急電車に乗らないと間に合わない。その特急料金が¥1730なのである。

当日は寝不足の重い身体で成田空港第二ターミナル駅に降り立ち、Jetstarの搭乗口のある第三ターミナルまでは15分も歩かねばならないのである。しかもその移動の半分以上は屋根がついているとはいえ、外壁のない屋外の廊下を延々と歩くのである。なお、途中からは壁付の廊下になっていることも付記しておきたい。もちろん、第二から第三ターミナルへのバスも走っているが頻繁に出ているわけではないので、乗るより歩く方が早いこともある。

さて、搭乗ゲートに到着しても、JALANAで見慣れた自動改札機はないので、ただただ待合のソファーが並んでいるだけである。そして搭乗時刻になるとお決まりの松山行き○○便に搭乗される○○様はいらっしゃいませんかというグランドホステスの声は聞こえず、代わりに大阪行き○○便の搭乗手続きは終了致しましたので、山田太郎様、佐藤花子様、鈴木次郎様はお乗りになれません。という残酷なアナウンスがあったのには驚いたのである。

さて、搭乗時刻になると、通常ではファーストクラス、ビジネスクラス、ナントカ会員が優先して乗り込むことになるのであるが、全席エコノミーなのでまずは窓際のお客様から先にご搭乗下さいというアナウンスがある。通路からみて一番奥の客から乗せた方が混雑を防ぐことができるのである。つまり、通路側の客が座ってシートベルトを締めたあとに窓際の客が来られると面倒なことになることを防いでいるのである。

また、自動改札機がないので、係員が右手に持ったハンディスキャナで乗客の提示するQRコードをスキャンし、左手のiPadで確認するという方法を採っているのはたいした投資削減だと感心した。ひとりの客が間違って松山からの復路便のQRコードを出して止められていたので、この方式であってもちゃんと機能しているようである。

また、ボーデディングブリッジもないので、写真のような通路を歩いて最後はタラップの階段を昇って乗り込むことになる。 

ボーディング通路

さて、エアバスA320の機内に乗り込み、座席に陣取り観察してみると液晶モニタがどこにもないので、避難や救命胴衣の説明はキャビンアテンダントが実際に身をもって説明してくれるのはかえって新鮮であった。もちろん、機内WI-FIなどない。飲み物を運んだワゴンがやって来るが飲み物は全て有料である。なお、私の乗った便は日本航空とのシェア便というアナウンスがあったが、JALの客は無料でジュースなどを飲むことが出来るのであろうが、第三ターミナルまで歩かされるのはかわいそうだと同情した。

機内でドリンクが提供されるのには理由がある。私はかつて空調の業界にいたことがあり、飛行機の空調のテキストを読んだことがある。飛行機は上空の乾燥した空気を取り入れているが加湿装置は付いていないので、機内の空気は乾燥しており客は水分補給の必要があるのである。但し、成田と松山の間くらいの短時間であれば現地に到着してから自分でドリンクを買って飲めという考えなのである。

その考えに従って機内ではドリンクを我慢して、松山空港に着いてすぐに水分補給をした。ここには蛇口から出るみかんジュースを飲むことが出来るのである。¥400を支払い、コップを貰うと自分で蛇口を捻ってコップにみかんジュースを注いで飲むことができるのである。この蛇口からみかんジュースというのは松山名物で、少なくとも市内4カ所で見掛けた。どれも¥400であったが、1カ所だけ¥100の場所があったので、松山へお越しの際は各自捜索されたい。

みかんジュースの蛇口

ようやく、本論の乗り鉄に入る。

松山には松山城の南に伊予鉄道松山市」駅があり、少し城から離れた西側にJR松山駅がある。そして、松山城の周囲を一周するように路面電車が走っている。そして、土日祝祭日運休となる本町線は、東京の線路に例えれば山手線に対する中央線の関係なのであるが、松山の中央線(本町線)は南北に走り、西側に偏っていて200m西側にはJR松山駅前を通り並行する環状線が走っているのである。加えて城の西側の堀に沿って線路が走っている。つまりは線路の東半分は乗客が望めないのである。そして他の路線は複線であるが、この路線は半分が単線である。加えて、2023年には便数が半減され、路線の道路には伊予鉄道が路線バスを運行しており、いつ廃線になってもおかしくはないのである。 

松山の第六系統時刻表

上の写真は始発の松山市駅のものである。12時38分の終電は折り返し谷町六丁目駅13時00分発の終電となる。

さて、文章の題名は往来記となっているが、そろそろ風呂が沸いたのでここらで筆を置くことにする。ではまた。

広沢の池

広沢の池で「鯉揚げ」が始まった。これは、池の水を抜き、養殖している鯉を収穫する行事である。関係者が泥田と化した池の中に大型の計りを設置して、プラスチックのザルに入った鯉の重さを測っている動画がネットに投稿されている。この作業は大体12月初旬に行われ、鯉の収穫だけでなく、「池干し」も兼ねている。これを怠ると持ち込まれた外来種の魚の繁殖を許したり、沈殿した汚泥による水質の悪化を招くのである。

些か脱線するが、東京郊外吉祥寺駅近の井の頭池では、長期間に亘ってこの「池干し」別名「掻い掘り」を怠っていたため、水鳥のカイツブリの幼鳥が育たない・・・外来種の肉食魚に喰われるという現象が顕著になり、2014年から定期的に「池干し」が実施されている。その結果、魚だけでなく、絶滅危惧種の日本古来の水草も復活したとの報道がある。

何はともあれ、周囲1.3キロの池が遠浅の潮干狩りの海岸のようになり、上流の清滝川の流れがわずかに細く蛇行している光景は見事である。

http://osumituki.com/hack/kyotokanko/unexplored-region/85356.html

さて、広沢の池は、別名「遍照寺池」とも呼ばれ、その寺の開山である寛朝僧正が開削したと伝えられている。池の中には観世音菩薩を祀る観音島があり、その周囲には多宝塔、釣殿など数々の堂宇を誇る大きな寺院であったが、創業者の死とともに衰え、復興の兆しもあったが応仁の乱で焼け、幕末に近い頃に復興されて今の形になったようである。会社でもそうであるが、一代で築いた叩き上げの社長が薨ると、後継ぎが余程頑張らないと事業は続かないものである。

因みに、寛朝僧正は朱雀天皇の命を受け、千葉県で「平将門の乱」の平定祈祷を実施し、たちまちに乱は治ったという。そして、その祈祷場所が後の「成田山新勝寺」になったと伝えられているので、歌舞伎で「成田屋」と掛け声のかかる市川團十郎海老蔵はここに足を向けて寝ることはできない筈である。

広沢の池の南側を走る道路の南側は急な坂になっていて、この道は人口のダムの上に走っていることに気が付く。そして、池から南へ細い路地を数分歩くと現在の遍照寺に辿り着くが、敷地も堂宇も驚くほどこじんまりとしている。それに比較して、成田山新勝寺は御本尊を江戸に度々巡業「出開帳」させてプロモーションを怠らなかったことや、旅行を禁じた江戸幕府に対して、庶民が「参詣」と称する旅行に最適の立地であったこともあって現在の隆盛を誇るのである。

冬の風物詩が「鯉揚げ」なら、春は桜である。池の辺の東側に広がる「平安郷」はある宗教法人の持ち物であるが、時期になると一般開放されていて実に見事な庭園を見せて頂けるのである。教祖様がこの地を気に入られ、「京都にも地上天国を」とのお言葉を下されたそうで、土地の入手が昭和二十七年ということであるから、庭園の設計も昭和生まれの我々に馴染むどこか近代的な匂いのする庭園である。相国寺から譲り受けた大楠、白川郷から移築された古民家など歴史を感じさせる見どころもあって、是非とも立ち寄りたい場所なのである。

大沢の池の周囲を飾る桜は平安時代を想起させて見事であるが、広沢の池端の桜は何か新しさを感じさせるものがあると言えよう。

http://www.heiankyo.org

そして、夏。五山の送り火が如意ヶ嶽の大文字から順番に灯り、最後の嵯峨野の鳥居形の炬火が並ぶ景色は観光客も少なく、家々の家族が道端に出て静かに見上げ拝む後ろ姿を眺めるだけで京都に来た甲斐がある。そして、鳥居形は広沢の池の東の岸から望むことができるのである。早めに来れば貸しボートに乗って拝むこともできる。

そして、灯籠流しである。池に流れ込む流れは西北側にあるが細い流れであるので池の面に流れはなく、灯籠は風の向きに流されていく。私が訪れた時は、南から北へ風が流れていたようで、灯籠は南側の児神社から送り人の手を離れて、池を渡り北の山際に集まっていく。あたかも魂が西国浄土へお戻りになるようであった。屋台は出ていたが観光客の賑わいはなく、灯籠を流すのは地元の民草であるから咳(しわぶき)一つ聞こえない静寂の世界で、観光客の私は場違いのような居心地の悪さと荘厳な光景への畏怖を感じたのであった。

 

最後が秋である。池畔北側の遍照寺山はそれなりに紅葉するが、京都には数えきれないほどの紅葉の名所があり、さらに北山ユース常連だった読者各位におかれてはとても目が肥えているので、特筆できるような景色ではない。ところが、西側に「地上の天国」として計画された「平安郷」の池端に並んだ紅の色の帯は実に呼吸が止まるような見事さである。恐らく、計画当時から宗教法人の資本力を背景にして、鮮やかな紅色に染まるモミジを全国から集めてたに違いない。ここだけは必見である。

夏の灯籠流しは五山の送り火とほぼ時間が被る。また、広沢の池は交通の便が悪く、それだけに俗塵に塗れておらず静かな祭事が続けられている。但し、宇多野ユースからは徒歩圏内なのでご興味のある方はそちらに宿泊されては如何であろうか。

錦川鉄道

JRと私鉄が相互乗り入れしている例は枚挙に暇(いとま)がない。国鉄民営化に伴い第三セクターとなった青森の「青い森鉄道」や岩手の「いわて銀河鉄道」などは昔はれっきとした東北本線であったので、接続していないと在来線で青森まで行くことが出来ないのである。旧国鉄の路線に限らず、日光線で競合する東武線はJRの新宿まで乗り入れているし、小田急線はJR御殿場線に乗り入れるだけかと思いきや、地下鉄千代田線に乗り入れているので霞ヶ関、日比谷、北千住と東京の東の端まで走っている。

京都に眼を転じれば、天橋立に向かう京都丹後鉄道が旧国鉄の線路を走っている。また、大阪では阪急千里線に乗っていると天神橋筋六丁目の先は地下鉄堺筋線になる。私は動物園前の駅で地下鉄を待っていて、あのマローンブラウンの車両が入線してきた時に腰が抜けるほど驚いた。阪急京都線もこの地下鉄に乗り入れているのでお試し頂きたい。

逆に旧国鉄ながら、東海交通事業城北線はJRが乗り入れを拒んでいるという興味深い特別な例もある。また、伊豆急行は当時の国鉄と相互乗り入れをするために線路幅を変更しているし、京成電鉄も線路幅を拡げる大工事をしている。おかげで、羽田空港と成田空港は。京浜急行・地下鉄浅草線京成電鉄と一本の線路でつながることになったのである。

さて、山口県の岩国に錦川鉄道という私鉄がある。錦川清流線という盲腸線が一本しかない鉄道であり、旧国鉄岩日線(岩国・日原間)が第三セクターの経営となった路線である。万年赤字で2025年から存続協議が予定されていることはさておき、この路線の乗り換えはJR岩国駅なのであるが、路線はその二駅先の川西駅からとなっている。そして各種の情報によるとJRの各駅で錦川線の切符を購入できるとある。旧国鉄のコンピュータシステムで今もJR各社で使用されている「MARS : Multi Access seat Reservation System」に登録されているので当然といえば当然である。

そこで渋谷駅西口のみどりの窓口でその切符を買おうとしたが、システムに駅名が出てこないという。駅員さんと押し問答しても仕方がないので、そこから山口県錦川鉄道に自分のiPhoneで電話した。自腹で30秒22円なのは痛いが仕方がない。

電話に出た若い女性社員は「JRの各駅で買えます。」と即答。「日本全国どこでもですか?今、東京の渋谷駅から架けているのですが、ダメのようです。」と返事をすると「ちょっと、お待ちください」の後に中年男性社員が電話に出てきて「MARSには登録されているのですが、JRでは広島駅から岩国を挟んだ徳山駅の間だけでしか買えません。」と明解なお答えを頂いた。

高齢になっていきなり「乗り鉄」趣味を始めた私にとって面倒な点のひとつが、JRと私鉄の乗り換え問題である。旧国鉄第三セクターになった場合には、ホームを共有している場合もあって乗換用の改札口を作らない駅もあり、逆に昔は一緒の国鉄で今も跨線橋を共用しているのに改札口を別々に設けている駅もあるのである。

また、新横浜駅で購入した切符は、新宿駅では払い戻しが出来ないのである。新横浜駅みどりの窓口JR東海の経営、新宿駅のそれはJR東日本の経営だからなのである。さらにスマホ座席指定券や乗車券を予約したり購入できるアプリがあり、みどりの窓口に並ばずに指定変更が発車時間寸前までできて実に便利なのだが、これもJR各社が別々のアプリを作成して運用しているのである。JR北海道からJR九州まで別々のアプリをUSERにインストールさせて、しかも使い勝手が丸で違うのは如何なものであろうか。

SuicaやICOCAは、投資ができないローカル線を除いて全国共通の仕組みになったのに、なぜ切符アプリが共通化できないのか実に不思議である。

私が交通公社の社長だったら全国のJR各社を横断して切符の予約や購入ができるアプリを作らせて世に問うのであるが、如何であろうか。飛行機の便なら各社横断して購入できるネットのサービスがあるが、JRはどうなのだろうか。

ここからは余談の(実話)コーナーです。

渋谷駅で切符を購入するのに50分かかった。鳥取から山陰線、境線、木次線伯備線芸備線福塩線に乗り、広島に出て可部線呉線(私鉄は省略)に乗る切符で、予め乗車券、特急券の表とルートを書き込んだ路線図を用意しているのであるが、大抵の場合は今回の錦川鉄道の切符が発券できないというようなトラブルが起きるのである。

そして、隣の窓口の男性の会話がなんとなく耳に入った。

「明朝は早くてみどりの窓口が開いていないのですが、明日乗る乗車券は買えるのでしょうか?」

「帰りの新幹線の特急券は車内で買えるのでしょうか?」

「帰りの切符も買いたいのですが、日にちが未定なのでどうしたらよいでしょうか?」

読者のみなさんは旅慣れているのであれれと思うのでしょうが、世の中には色々な人が居る者だなあと思った次第です。

東福寺

手元のガイドブックにある京都の神社仏閣を全部歩いてしまったが、季節によって異なる風情があり、今年のように紅葉が不作の年もあったりで、汲んでも汲んでも尽きせぬ上洛の思いは止まないのである。今回は富山・立山糸魚川・高岡・金沢・福井を徘徊した帰途、湖西線を辿って錦秋の古都を歩いたのでご報告したい。

暮色濃い京都駅頭に降り立ち、向かったのは堀川三条のビジネスホテル「セレクトン京都堀川三条」である。定宿の薙刀ホテル(仮名)の二倍の値段で驚いたが、最近の宿代は高騰しているのだ。APAホテルが宿代を「時価」にしたのが最初かもしれないが、どこもかしこもビジネスホテルの宿泊費は一万円を超える時代になってしまったようである。なお、東横インはあまり値上げしておらず、会員は半年前から予約を受け付けるのでありがたい。(役立情報#1)

また、東横インは洛中に複数のホテルを持っているのでキャンセル待ちを狙って、満室でも執念深く深夜とか早朝にネットで確認しているとほぼ宿泊できる。なお、五条大宮など不便な場所の東横インは抑えで予約しておくことをお勧めしたい。なお、私は東横インとは何の関係もないのでステマステルス・マーケティング)ではない。(役立情報#2)

脱線するが、別のある日に新潟のビジネスホテルに宿泊したら、普段は4,000円のホテルが15,000円になっていた。なんとキンプリ(King & Prince)のコンサートがあってどこのホテルも満室なのである。皆様、コンサートと学会総会の日程は注意しておいた方が宜しいと思うのである。(役立情報#3)

今回の上洛目的は、京都国立博物館で10月7日から12月3日まで開催される「東福寺特別展」であり、目玉は「五百羅漢図」全50幅一挙公開である。東福寺には45幅、東京の根津美術館に2幅が現存されていて、足りない3幅は模写である。室町時代の絵師、明兆(1352~1431)が57歳で描いた巨大な連続ものであり、500人の人物が描かれているのである。この涅槃図はBS番組「京都浪漫」で紹介されたことがきっかけで是非拝見したいと思ったのである。

東福寺は桜が一本もないという話は、読者諸兄でご存じない方はいないと思うが、この番組ではさらに詳しい話をしていた。「吉山明兆の献上した絵を足利四代将軍足利義持がいたく気に入り、褒美として何をつかわすかを尋ねた。」すると明兆は「東福寺はご覧の通りに桜の名所になっております。後生、この場が必ず遊興の場と化し、そして必ずや修業の妨げになります。褒美として修業の妨げとなる桜の木を全て切り落として下さい。」と願い出た。その結果、東福寺は桜の名所ではなくなり、紅葉の名所になったとのこと。

桜の季節に東福寺へ参詣する人数は激減しただろうが、紅葉の季節には私を含めて大勢の観光客が押し寄せるのであるから修業の邪魔ではないかと思う。それでも貴重な現金収入が得られるのであるから修行僧の衣食に些かの貢献があるかも知れないと考えたのである。

早朝は、久保ちゃんと当然ながら東福寺の通天橋や本坊庭園、さらに塔頭の光明院を拝観した。なお、光明院は四季を通じて公開されており、最寄り駅は京阪の鳥羽街道駅と紹介されているが、そこからだと長い坂道を登ることになり顎が上がってしまうので、東福寺から南下するのがよろしいと久保ちゃんから教えてもらった。(役立情報#4)

光明院の後は京阪で移動して、寒さと足の疲れを癒やすために、五条坂に面した「喫茶アマゾン」で一休みした。二階の喫茶室には妙齢のご婦人二人が仕切っていて、彼女らに見とれていたのかコーヒーに誤って塩を入れてしまい、実に残念な思いをした。この喫茶店に入った目的はもうひとつあって、三十三間堂近くで、食べログ3.6点、Retty三つ星の名店の開店時刻を待っていたのである。

開店時刻の5分前に入店のつもりが、そうは問屋が卸さなかった。開店時刻11時の前だというのに、既に常連さんで満員、寒い外で待たされたが。入店は11時08分であった。立ち食い蕎麦屋ではないので、最初の客がそんなに早く店を出る筈がない。つまりは10時頃から営業しているのではないだろうか。(お得情報#5)

昼間からアルコール成分も注入した上、新鮮な食材を豊富に使い眼の前でシェフが腕を振るって作られる料理に舌鼓を打ち、大々満足して店を出た。ここでは、糖質、脂質、蛋白質と塩分が申し分なく摂取できるのでとてもお勧めである。特にこの店のオリジナルなソースが印象的で、瓶に詰めて販売していないかを尋ねたが、門外不出なのだそうである。なお、店の名前とジャンルは各自調査されたい。

で、いよいよ京都国立博物館へ入り、創健者の円爾が中国に六年間の留学を経て持ち帰った書籍、帰国後に東福寺を建て鎌倉時代から集められた書画仏像、特に明治時代の火事で焼け落ちた大仏で焼け残った2mの左手は剥がれた金箔もさることながら当時の栄華を偲ばせるのである。なお、この左手は中指と薬指が曲げられて、人差し指と小指が立てられているので楳図かずお画伯のまことちゃんの「グワシ」を彷彿とさせるのである。(注:グワシは立てる指が違う)

で、お目当ての涅槃図はどうも小さくて、描かれている人数も少ない。「こはいかに、かかるようやはある」と思わず高校時代に習った古文が口をついて出てしまったが、真相はこうであった。涅槃図が余りにも大きいので、特別展の期間を四分割して展示してある。つまりは全部観たければ、京都国立博物館へ日を変えて四回お運び下さいということであった。蛇足であるが五百羅漢コンプリートチケット限定2000枚が発売されていた。実は、上野の国立博物館でも同じような経験があったことを思い出した。特別展を見学する時は事前の確認が必要なのだなあと悟った次第である。(お得情報#6)

 

集客あれこれ

「お寺がお堂の修理やらで費用が必要になると、特別公開を始める」という話を伺った記憶が突然蘇ってきました。なんだか、お坊さんもお金とは無縁ではないのだなあと感じたのですが、年齢を重ねるとモノの観方、考え方にも変化が訪れます、

特別公開をするということは、普段は公開していない。つまりそれだけご本尊なり、前立本尊像を大切にしているのであるのではないか。あの清水寺でさえ、ご本尊の御開帳は33年に一度なのである。ここで「あの清水寺」と書いたのはとても逆説的ですが、実のところ清水寺は毎年のように秘仏公開を繰り返しているのです。ちなみに2022年の清水寺は境内にある随求堂の秘仏本尊を22年振りに御開帳しており、2023年の夏はは本堂内々陣特別拝観があり、2024年は春夏秋に夜間特別拝観と、夏は更に本堂内々陣特別拝観があります。

さて、京都駅ビルの10階に「京都拉麺小路」(ラーメンこうじ)という一画があります。全国各地の有名ラーメン店が8店舗出店しており、私は銀閣寺近くの「ますたに」の息子さんが担当している「ますたに」駅前支店だけしか食べておりませんが、京都からは烏丸の「麵匠 たか松」さんも出店しております。

そして、このようなラーメン店集合施設の本家は「新横浜ラーメン博物館」(以下「ラー博」と略)であることは誰も反対しないと思います。なお、元祖は札幌の「さっぽろラーメン横丁」であります。そして、この「ラー博」が他のラーメン施設と異なるのは入場料を取ることであります。そして、昨年からの特別企画は、過去に出店した有名店を期間限定でリバイバル出店しており、自宅が徒歩圏内にある私は全店を踏破しようと目論んでおります、

思うに、数を決めて特定期間内に全部を巡るというのは「ラー博」が編み出した企画ではなく、京都にその企画のミナモトがあります。賢明な読者各位におかれては既にお気づきでしょう。「都七福神めぐり」がそれなのであります。

調べてみると既に六百年の歴史があって、たかだか創立三十周年のラー博とは比べようもありません。詳しくは、下記「都七福神まいり」のサイトでご確認をお願い致します。

https://miyako7.jp

また、話は脱線しますが鷹峯源光庵前でバスを降りて、坂を登り念林坊の方に向かう左側にある遣迎院七福神の内の福禄寿であります。そして、調べてみると昭和三十年(1955年)にこのお寺は上京区寺町広小路北之辺町から現地に移転しており、そのため松ヶ崎の大黒天を除けば徒歩で簡単に廻れる七福神がバスを利用せざるを得なくなったというこぼれ話があります。

複数の場所を巡ることで、各々のお寺へのお布施も期待できるのですが、その大かがりなものが四国八十八カ所、西国三十三カ所のお遍路巡礼です。そして御朱印帳もお寺にとっては大事な収入源であります。なんだか、最近になって「御朱印帳」が流行ってきたように思うのは私だけでしょうか。

突然の昔話ですが、ユースホステル会員証のスタンプカードも、御朱印帳と同じ役割を果たしたのではないでしょうか。何枚も積み重なった分厚い会員証を取り出すとなんだか鼻が高く感じられた読者諸兄もおられるのではないでしょうか。

ということで、特別公開、期間限定、聖地巡礼などをキイワードにして京都巡りを見直してみるのも新年のお楽しみになるのではないでしょうか・

横浜の京都

横浜は明治期に外貨を稼ぐための生糸輸出港として栄えました。八王子と横浜を結ぶJR横浜線は生糸を運ぶために敷設されましたし、東京のJR山手線の池袋から目黒を通る西側の線路も生糸運送のための路線でした。世界遺産となった富岡製糸工場も国を挙げての外貨獲得ストーリーの一編だったわけであります。

そして、モノが動くときは、カネも動き、財を為す人物も出てきます。この生糸の豪商に娘婿として入籍したのが三渓園創始者である原三渓であります。彼は美術に深い興味を持ち、横浜の南にある五万三千坪の別荘の敷地に、廃仏毀釈によって廃寺となった大徳寺塔頭にある仏殿や、奈良や鎌倉の寺の本堂、三重塔も移築します。それだけでなく、新たに建物や茶室も作ります。昭和十三年の彼の没後も住宅や寺院の本堂などの移築が続けられて、平成十九年には国の指定名勝となりました。

さて、ここの敷地面積は五万三千坪ですが、平安神宮全体のそれが二万坪、日本庭園に限ると一万坪であるので、三渓園の巨大さが想像できるのではないでしょうか。また、平安神宮が平らな土地を使っているの対して、三渓園は大きな池を擁しながら、山の斜面を巧みに取り入れて谷川、小川を形成して橋も多く架けられていて変化と深みのある景色を造っているのです。

[caption id="attachment_6483" align="alignnone" width="225"] 谷川の先に聴秋閣を望む[/caption][caption id="attachment_6486" align="alignnone" width="300"] 大池[/caption][caption id="attachment_6484" align="alignnone" width="300"] 高台寺の観月台を思い起こす亭樹[/caption][caption id="attachment_6482" align="alignnone" width="225"] 橋詰より亭樹を望む[/caption]

正門から入り、左右に池を眺めながら築堤の上を歩いて行きますと彼の住居となっている「鶴翔閣」という藁葺きの二百九十坪の邸宅が左手の小高い場所に見えてきます。玄関には京都の建物にも時に観られるような屋根付きの車寄せが望めます。一つ一つの建物を紹介するには紙幅が足りませんが、少し歩くと小さな池の向こう側に複数の建物を雁行させた「臨春閣」が見えてきます。建物の一部は池に面しており、なんとなく桂離宮の建物を彷彿とさせるなあと思ったら、この三渓園は「東の桂離宮」と称されるという説明書がありました。

[caption id="attachment_6485" align="alignnone" width="300"] 雁行の臨春閣(東の桂離宮)[/caption][caption id="attachment_6481" align="alignnone" width="300"] 州浜と臨春閣(東の桂離宮)[/caption]

また、三重塔は室町時代に建立、木津川の燈明寺という廃寺から移築され、関東の木造建築では最古と言われております。そして七堂伽藍のお約束で寺ではほぼ配置が決まっていますが、この三重塔は小高い丘の頂上に移築されているので、この園のシンボリックな尖塔となっております。

[caption id="attachment_6490" align="alignnone" width="300"] 京より移築された三重塔[/caption]

そして、江戸後期以降に造られた日本庭園のお約束ですが、大池の周囲には桜が植えられていて、花見の季節には大賑わいになり、横浜の名店からの期間限定の出店もございます。例えば、シウマイの崎陽軒は3月23日と24日、香炉庵は崎陽軒と同じ日とその翌週の30日と31日も出ております。各地の桜の名所と違って、桜は染井吉野だけではなく創立者の故郷である岐阜にゆかりのある、薄墨桜、庄川桜、柳津高桑星桜と開花時期がそれぞれに異なる桜が植えられているので、比較的長い期間に亘って桜を楽しむことができます。

ところが今年は桜の開花が遅れていて、3月31日(日)に訪れた時には桜のどれも開花しておりませんでした。横浜の名店の出店は3月末日で終了しているので、観桜の客を宛にしていた各店はさぞかし残念なことだったろうなあと思ったのであります。

横浜には自分でカップのデザインを決めてトッピングも選択できるカップヌードルミュージアムや、事前予約するとあのNISSAN GTRを無料で公道を運転できる日産自動車本社、元町や中華街などの観光スポットが沢山ありますが、地下鉄の元町中華街の駅からバス15分、徒歩5分のここ三渓園は意外な穴場ですので、機会がありましたらご来臨ください。