山崎と妙喜庵

今やネットの時代が進み、2022年11月に AIを使って割合長い文章を書く基本ソフトウェアが開発され、その基本ソフトを使って十指に余るほどのネットサービスが始まっている。例えば「天王山の戦いとは」と問いかけると「山崎の合戦とも呼ばれ、1582年に豊臣秀吉明智光秀との間での衝突。国を分けた決戦があり、淀川と天王山に囲まれた土地で戦われ、秀吉の勝利で終わった。」という回答が返ってくる。なお、日本語表現が少しおかしいのは私が和訳したからである。

 

既に米国では中学生や高校生がこれを使うことが問題になっているというし、これも米国のバズフィードという通信社が一部の記事だろうが、記者の代わりにChatGPTというAIサービスを使うと公表して株価が2倍に跳ね上がった。

 

さて、昨今「京都はどこまでが京都なのか」問題を考えている。秀吉が作らせた御土居の内側だという説や、中京区に限るなど諸説があって、謎は深まるばかりである。私は、解けない謎をさらりと解いてしまう七色仮面ではないので、謎をひきづったまま、阪急京都線山崎駅に降り立ったのである。

 

用意周到な私は、一ヶ月前までに往復葉書のみで見学を受け付けるという国宝「妙喜庵待庵」を見学する計画を立てて、プラチナチケットをゲットした後、お仲間を連れて山崎の駅頭に佇んだのである。そして、なんとその国宝が駅前広場に面していることに些か驚いてしまった。だいたい駅前にはサラ金かパチンコ屋、コンビニが定番であるが、駅前に国宝があるのは珍しいことである。

 

「妙喜庵待庵」は千利休が建てた茶室のうちで確実な証拠のある一番古いもので、にじり口が大きいとか広さが二畳しかない、炉が部屋の角にあるなどゼロ号機、初期モデルの粗さを感じるのでありますが、何故こんな辺鄙な場所にあるのかはここで、説明を受けて初めて知ったのである。明智光秀との戦いの後、秀吉はしばらく天王山に居を構えていたので、千利休を呼び寄せて茶室を作らせた。それがそのまま残って今に至るのである。

 

そして、何故に秀吉がここに居を構えたかは、現地に来てみて天王山に登ってみて実感したのである。山の中腹から足下を望むと、桂川宇治川、木津川が並んで流れており、その下流は淀川となり大阪に繋がります。そして「山崎津」と呼ばれる河川往来の港まである交通の要衝であったのである。つまりは、ここを抑えておけば、西国から来る敵軍に対抗できるのであります。

 

そして、賑わった山崎の街は蛤御門の変禁門の変)で焼かれてしまいます。応仁の乱にしろ、蛤御門の変にしろ、かなり広範囲に焼けたのだなあという感想を以前から持っておりました。京都女子大の上の寺まで焼けたという説明書きを読んだ時に、そんなに家や寺は密集していたのか、火の粉はそんなに飛ぶのかと訝しんでいたのである。

 

その疑問は現地で氷解した。禁門の変で敗走した長州藩がここ山崎に陣を構えたので、追っ手の会津藩新撰組が放火したとのこと。もっとも最後に残った長州藩士17名は天王山中腹の山小屋に籠もり、自ら火を放ち小屋に貯えた火薬で爆死したり、重傷を負ったのである。つまり、蛤御門の変終結したのはこの山崎の地であったのである。

 

さて、中腹までとはいえ天王山を登り、一時は栄えた山崎の寺社を巡り、ようやくもう一つの予約した場所の見学時刻が近づいてきた。意外と歴史は浅く99年しか経ていないが、日本放送協会の朝ドラにも取り上げられた場所でもあり、見学もネットで申し込みできるがあっという間に一ヶ月分が埋まってしまうのである。今となっては二桁万円の値段が付き、入手困難のウイスキーの名称ともなっている「山崎」の醸造所である。

 

1923年に壽屋サントリーの旧社名)が山崎に工場を建て、英国で修行した「マッサン」竹鶴政孝により本格的な国産ウイスキーの生産が始まったのである。その後に竹鶴しは壽屋と袂を分かち北海道でニッカウイスキーの前身である日本果汁を立ち上げるのであるが、サントリーの展示や説明には竹鶴氏のことは一切触れていない。

 

実は、壽屋で竹鶴氏が製造した本格ウイスキーは当時の日本人の味覚には合わず、商売としては失敗作であったのである。竹鶴氏が去った後にウイスキー事業を成功に導いたのはサントリーであるという自負があるのである。

 

工場見学の最後はお楽しみの試飲である。これについては、下記のURLのサイトを参照されたい。

https://retty.me/area/PRE27/ARE85/SUB8502/100000814368/54488429/