冷泉家訪問

縁あって冷泉家住宅を訪問、ご当主である貴美子ご令室より懇切丁寧なるご説明を受けましたのでご報告致します。まず、冷泉家について簡単に説明致しますと、皇室に仕える公家のひとつで、その仕事は和歌と有職故実で、和歌については藤原俊成・定家の血筋を継いでおり、蔵には定家などの直筆の和歌集が収められているのです。有職故実とは藤原定家が記した「明月記」にあるように古の時代からのしきたり(儀式、衣服、作法など)を伝える役割を云います。

門を潜り、大きな玄関に入り、お座敷を幾つか抜けたところの大広間があって、そこで貴美子様のご説明が始まります。前の方はお座布団の席で、膝に支障のある方用に低い椅子が並んでおります。まずは江戸時代の御所とその周囲の地図が配られ、御所御苑の西と東は烏丸通りと寺町通り、北は今出川通、南は丸太町通に囲まれていることの説明があります。そして冷泉家は御所北側の今出川通を挟んだ北側にあることをお示しされます。

応仁の乱から本能寺の変など幾多の戦乱を避けて、公家たちは遠方にある自分たちの領地などに避難生活をしていたのですが、太閤秀吉によって公家の住居は前述の大きな四本の通りに囲まれた土地に集中して住むようになったのです。都を外敵から守る御土居を作ったり、寺を寺町通りに集めたりと秀吉は今の形の京都を作ったのであります。私は、公家の住居を御所の周囲に集めたのは、ミコトを庶民から遠ざけるという隔離策であったかもしれないと気づきました。

なお、冷泉家がこの地に居を構えたのは慶長十七年(1606年)という記録がありますが、秀吉の都市計画の完成がその時期までかかったのではなく、当時の冷泉家の義兄に不始末があり、連帯責任と云うことで、所払いの処分を受けていたので冷泉家は各地を転々としており、ようやく慶長五年(1600年)に公家の街に加わる許しが下りたのであります。

さて、平安時代までは祭政一致でミコトが元旦から春分新嘗祭など祭り事と政治の両方を司取っていたのですが、武士の勃興隆盛によりミコトの仕事は祭り事だけとなっていきます。その祭り事には新年の歌会はじめなど一般庶民にも知られている行事もありますが、多くはすめらみことと公家たちによって行われております。何のためにやっているのか判らない行事もありますが、昔からやっているからとしか言えないのが伝統文化なのであります。

そして皇族の行事を支えるのが公家の仕事なのであります。それらの仕事は一子相伝で、優秀なお弟子さんがいてもその家の仕事を継ぐことはできません。但し、本家からそれらの弟子は特別な優遇を受けることができます。冷泉家の例ですが、ご先祖さまの藤原俊成や定家の直筆本を手に取れるのは冷泉家当主のみですが、高弟になるとそれらを所蔵した蔵の小窓から書籍を眺める許可が頂けるのであります。

師と弟子、権威、一子相伝、弟子は師を超えることが出来ないなど、貴美子様の言によれば家元制度のオオモトは天皇家であるとのことであります。愚妻も少し華道をかじった時期がありまして、家元から華名というか「名前」を頂き、看板も頂きました。私もお茶を嗜もうと思いましたが莫大な費用がかかることを映画「日々是好日」を観て実感して、今では台所でお抹茶を立ち飲みしております。脱線してすみません。

御所と御所の周辺で年々歳々の行事を繰り返していたのですが、明治維新になり明治天皇が東京に移られた際に沢山の行事も廃止されましたが、公家は一応天皇家に従って東京に転宅しました。すると御所の周囲は空き家ばかりになったので明治20年代に整備して御苑(公園)となり、周囲に石垣も出来たのですが、冷泉家はたまたま御所の北の今出川通りの向こう側にあったので、取り壊されずに残ったとのことです。

その後、今出川通りに市電を通すための大正六年(1917年)の拡幅工事で、正門や塀は少し北側に移動して玄関との距離が縮まり、庭も狭くなったのですが、主な建物は江戸時代の形を留めております。また、天明八年(1788年)の大火で焼けており、現存する住宅はその当時の再建住宅ですが、幸いなことにお文庫を蔵した蔵は無事であったので、家元としての面目は保たれているのであります。

また、明治東遷に伴う留守居役として、冷泉家の東隣に山科家、西には藤谷家、徳大寺家の四軒が並んでいたのですが、冷泉家以外の三軒はいずれも同志社大学の敷地に取り込まれてしまいました。まるで兼好法師徒然草の一節をそのままなぞるような世の中の移ろい、儚さを示す事例ではないでしょうか。

さて、前置きが長くなりました。ここから住宅の説明に入ります。表門は瓦葺きの薬医門(門柱の後ろに控柱を設けた四本足の門)で、その屋根のスロープの一番下を司る「留蓋瓦」に亀の像が使われている事が特徴であります。玄武朱雀青龍白虎という四神相応が、アレンジされて亀(北)、鳥(南)、龍(東)、虎(西)となり、御所の北に冷泉家があることから亀をモチーフにしたと云われております。繰り返しになりますが、門は道路拡幅のため10mほど北に移動、そのため白川の砂を敷き詰めた庭も狭くなっております。

庭には、右近の橘と左近の「梅」が植えられており、梅はちょうど満開の時期でありました。なお、御所紫宸殿の左近には「桜」が植えられておりますが、唐国から伝わった当時は「梅」だったものが国風化に合わせて「桜」となっておりますので、冷泉家は大昔の慣例を継いでいるといえます。ここで脱線しますが、御所の正面の門は丹塗りですが、来日した中国人に言わせるとその朱色は中国のものと色が違うとこの耳で聞いた覚えがあります。材料の入手性がそうなのかは知りませんが、海外から取り入れたものを改良する本邦の習性は少なくとも数世紀前には始まっていたのだなあと感じました。

ここから玄関、座敷の説明に入るところですが、大正六年の道路拡幅に合わせて住宅そのものも、「曳き家」(家全体を水平移動すること)をしたことを機会に増築や改築をしており往時の姿を偲ぶことには少し無理がありますが、特徴的な内装について二項目を挙げておきます。

まずは、和歌の会が今でも開かれる大きな座敷の床の間です。床の間に掛け軸、違い棚に書院というのが一般的な造りで、床の間は向かって右側に配されるのですが、ここの座敷は床の間を中心にシンメトリーに作られていて、掛け軸と生け花で季節を感じさせて和歌の会を盛り上げる仕掛けになっております。翻ってふすまには、山水などを書き込まず和歌の創作に邪魔をしないように無季な唐草模様が描かれているのであります。今ではテレビ中継放送が行われる宮中の歌会始は正月の風物詩ですが、冷泉家でもここの大広間で平安時代の衣装を纏って歌会始が毎年開かれています。

台所は、禅寺の庫裏に似ていて、大きな竈が三口あって天井は張らずに梁組みが露出しており、長年の竈の煙に燻された黒光りがなにか荘厳な雰囲気さえ醸し出しております。そして、竈のある土間から板の間に上がるところの束には「赤熊(しゃぐま)」といわれる藁束が括り付けられております。これは祇園祭山鉾巡行の籤取らず一番の「長刀鉾」の長刀の先端にある刃と山車の屋根の間に飾られている「天王の御座」の一つで、巡行の後にこの場所に魔除けとして飾られるようになっているそうであります。

本来の「赤熊」とは赤いライオンのたてがみのようなウイッグのことを指しますが。旗、槍、兜の飾りにも用います。時代劇では、大名行列の槍の先に白いフワフワがついているものが出てきますが、あれは「白熊(はぐま)」と呼ばれているそうで、それを赤く染めると赤熊になります。

最後が御文庫つまり土蔵であります。中には前述の藤原定家などのご真筆が所蔵されていているので、これを失うと家元の権威に拘わることになるのです。そこで屋根まで漆喰で塗り固めて、その上に木製の屋根を載せている。そして火事が近くにあると先ずは木製の屋根を外し、蔵全体にムシロを被せて、そこに蔵の南に穿った井戸の水を浴びせ続けるという防火対策をするのです。こうして天明の大火を初めとして幾多の火災を耐えて800年を過ごしてきたのであります。

当然ながら蔵には正面扉があって、見学時には通風のためか分厚い扉は開いていますが、その扉を潜って内部に立ち入ることができるのは当代の当主のみであります。そしていかなる高弟といえども内部に立ち入ることは許されず、横にある通風窓から内部を拝むのが最高位の弟子のシルシなのである。また、冷泉家にとっては蔵は神殿でもあるので元旦にはお参りするし、子供が近くで遊ぶことも禁じられているとのことです。

なお、写真撮影は許可されていましたが、公開は許可されていませんので写真がないことをお許し下さい。

以下、蛇足ながら;敗戦後に冷泉家は伯爵の地位を失い国からの御下賜金を受けられなくなりました。同時期に農地改革で不在地主であったことから昔からの田畑(領地)を失い、一時期は屏風や書画骨董、茶器茶碗などを売って生活していたそうです。そして相続税を支払えないことが判明すると京都府に申し入れして文化庁も動き、財団法人「冷泉家時雨亭文庫」を設立して相続税問題を回避したとのことです。

さらに以下は2021年7月4日読売新聞からの引用です。

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藤原道長の六男、長家に始まる御子左(みこひだり)家と呼ばれる系統から歌人藤原俊成、定家親子が出た。鎌倉時代、定家の孫の代に二条家、京極家、冷泉家の3家に分かれ、いずれも歌道師範家として重きをなした。二条、京極、冷泉はそれぞれ当時屋敷があった通りの名だ。

冷泉家の家祖、為相(ためすけ)の母、阿仏尼は側室だったが、亡き夫の所領を息子に相続させるための訴訟で鎌倉に赴き、この時、紀行文「十六夜日記」を書いた。為相も長く鎌倉に暮らし、武家に歌を広めた。

嫡流二条家は権力争いに巻き込まれ、和歌が巧みと評判だった京極家は政治に関わりすぎて、いずれも家が断絶した。残った冷泉家藤原俊成の歌論書「古来風躰抄(こらいふうていしょう)」や定家の日記「明月記」など、御子左家以来の貴重な遺産を引き継ぎ、動乱の時代を生き延びた。

戦国時代には地方へ避難し、駿河(現在の静岡県)の今川氏などを頼った。豊臣政権期には正親町天皇の勘気に触れて大坂に退去したが、徳川家康の取りなしで京都に戻り、現在の場所に屋敷を構えた。

秀吉が形成した公家町の屋敷のほとんどは明治時代に取り壊され、跡地は京都御苑となった。その外側に位置する冷泉家は旧地に残ることができた。

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